今日はクリスマス・イブ。朱莉は1人広々としたリビングのソファに座り、ため息をついた。「ふう……」テーブルの上には1枚のカードが小さな箱に入って置かれている。それは翔からのクリスマスプレゼントとして、3日前に朱莉の自宅に郵便物として届けられたギフトカードであった。『クリスマス限定レディースプラン・エステ付き宿泊カード』カードにはそう記されている。クリスマスにお1人様向け女性の為のホテル宿泊限定カードが翔からのクリスマスプレゼントだったのだ。「結局翔先輩からクリスマスプレゼントのリクエストの話こなかったな…。クリスマスに私が1人だから気を遣ってくれてこのプレゼントにしてくれたのだろうけど……」朱莉は窓の外を見ながらポツリと呟いた。「プレゼント代わりにお母さんに会いに来て欲しかったな…」ため息をつくと再びギフトカードに目を落した。本当は何処にも行きたくは無かった。まして、こんなお1人様用のホテル宿泊カードをプレゼントされた日には、君には誰一人として一緒にクリスマスを過ごす相手がいない寂しい人間なのだろうと、翔に言われているようで返って惨めな気分になってしまった。だけど……。「翔先輩がわざわざ私の為に吟味してこのプレゼントを考えてくれたんだものね。私ったら卑屈に考えすぎだ。これは先輩からの好意の気持ちが込められていると思って、ありがたく受け取って使わなくちゃね」朱莉はソファから立ち上がると、ベッドルームへ行き、1泊宿泊分の着替えを用意してボストンバックに詰めると、自宅を後にした。行き先はギフトカードに書かれた都心にある高級ホテル。折角初めての翔からの贈り物なのだから無駄にすることは出来ない。多分、翔は明日香と2人でクリスマスを過ごすはずだ。(翔先輩……ホテルの宿泊カードをプレゼントにしたのは私に寂しいクリスマスを過ごさせない為にですか? それとも明日香さんと2人でクリスマスを過ごす事に対して私に気を遣ったからですか―?)朱莉は電車に揺られながら瞳を閉じた――**** ここはベイエリアにある一流高級ホテル。今、このホテルの最上階にあるスイートルームに翔と明日香は宿泊している。「ねえねえ。翔見て。海に夜景が映って、きらきら光ってすごく綺麗よ?」明日香は巨大なガラス張りの窓から見える美しい夜景を背景に翔に声をかけた。「ああ……本当に綺
今日はクリスマス― 琢磨の部屋で目覚まし時計の音が部屋中に鳴り響いている。ピピピピ……「う~ん……」ごそごそとベッドから腕を伸ばし、パチンとアラームを止める。欠伸をしながら大きく伸びをすると琢磨は起き上がった。「ふう……。昨夜は飲みすぎたな……」 昨夜は友人が経営するダーツバーにいた。クリスマスイベントのパーティーが開催されたのだが、どうしても頭数が足りないから来てくれと友人に頼み込まれて、仕方なく出席したのであった。琢磨自身はこのパーティーに長居するつもりは全く無かった。ほんの少しだけ顔を出して友人の顔を立てたら、早々に退散するつもりだったのだが数人の女性に取り囲まれて、帰るに帰れなくなってしまい、結局帰宅出来たのは深夜の2時を回っていたのだ。「……ったく……。もう二度と頼まれても出てやらないからな……」頭をかかえると、スマホが着信を知らせるランプが点滅していることに気が付いた。「うん? 誰からだ……? 翔か?」スマホをタップすると着信相手は朱莉からであった。「朱莉さん……? そういえば昨夜は翔がプレゼントしたホテル宿泊ギフトを利用したのだろうか?」琢磨はすぐにメッセージを開いてみた。『こんばんは。土曜の夜に申し訳ございません。翔さんのプレゼントしてくれたホテル宿泊を本日利用させていただいております。おかげさまでエステに豪華なルームサービスを堪能することが出来ました。その旨を翔さんに伝えていただけますか? 後、1つお願いしたいことがあります。今現在住まわせていただいております部屋ではペットを飼うことは出来るのでしょうか? もし出来るのであれば、小型犬を飼わせていただきたいと思っております。九条さんの方から翔さんに尋ねていただけますか? 申し訳ございません。どうぞよろしくお願いいたします』「ふ~ん……ペットか……」琢磨はスマホのメッセージに目を落しながら呟いた。確かにあの広い部屋に1日中1人きりで過ごすのは寂しいかもしれない。朱莉は外で働いている訳でもない。家で通信教育の勉強と母親の面会の為に病院通いをしているだけの日々を過ごしている。結婚当初、朱莉はパートでもいいから外で働きたいと琢磨を通して翔に希望を出していたのだが、書類上とはいえ鳴海グループの副社長の妻が働く事について世間体を考えた翔が許さなかったのである。「まあ、確かに
後着替えを済ませて、コーヒーを淹れていると琢磨の電話が鳴った。「もしもし」『おはよう、琢磨。今メッセージ読んだよ』「そうか。で、ペットの件はどうだ? 俺は幾ら何でもあんな広い部屋に1日中1人で過ごす朱莉さんが気の毒だと思うからペットを飼うのは賛成だ。翔、お前はどうなんだ?」『ああ。俺も別に構わない。朱莉さんが自分から要望を言ってくるのは今回が初めてだしな。琢磨から朱莉さんに連絡を入れておいてくれないか? あ、それで伝えておいてくれ。もしペットを飼ったら、画像を送って見せて欲しいって』「分かったよ。それじゃ、今一度電話切るぞ。多分朱莉さんメッセージを待ってると思うからな」『分かった。朱莉さんによろしくな』琢磨は電話を切るとすぐにメッセージを書いた。『副社長の許可をいただくことが出来ました。どうぞ朱莉さんのお好きなペットを選んでください。後、社長がもしペットを購入した際は写真を送って見せて貰いたいと話しておられました。それではまた何かございましたら連絡を下さい』**** ルームサービスのコーヒーを飲んでいると朱莉のスマホに着信を知らせる音楽が鳴った。(ひょっとして……九条さん?)直ぐにスマホを開くと朱莉の顔が笑顔になった。「良かった。ペット、飼ってもいいんだ」朱莉はすぐにコーヒーを飲み終えると、荷物を片付けていつでもチェックアウト出来る準備を始めた。(フフ……早速今日ホテルを出たらペットショップへ行ってみよう。そうだ! どんなペットがいいか、今から検索しておこうかな?)朱莉は早速スマホの検索画面を表示させ、どんなペットがいいか調べ始めた。(う~ん。飼うのなら犬がいいかな? それとも猫がいいかな? あ……でも、猫はひっかいて壁紙とか傷つけちゃったらまずいし……うん。やっぱり小型犬にしてみようかな?)それから朱莉はホテルをチェックアウトするまでの時間を、ペット検索に費やすのだった――****「明日香、そろそろチェックアウトの時間だ。行こう」翔は未だにベッドの上に寝転がっている明日香に声をかけた。「あ~あ……。もう帰らなくちゃいけないなんて……。もっとこの部屋にいたかったわ。ねえ、もう1日泊まらない?」「無理言うなよ、明日香。俺は明日は仕事があるんだ。明日の朝、ここから会社なんて遠すぎだ」翔は荷物を整理しながら返事をした。「
朱莉はペットショップに来ていた。ゲージの中には様々な犬が入れられている。「フフ……どの犬も皆可愛いな…」ガラス越しから愛らしい子犬たちを見つめていると、若い女性スタッフが朱莉に話しかけてきた「お客様。お気に入りのワンちゃんは見つかりましたか?」「はい。一応飼いたいと思う犬はいるんですけども……」「どちらのワンちゃんがよろしいのですか?」「あの、こちらの子犬がいいかなって思ったんですけど」朱莉が指さした犬は生後60日のオスのトイ・プードルであった。「ああ、このワンちゃんですね。最近お店に並ぶようになったんですよ? 中々人気のワンちゃんですからね」「やっぱりそうなんですね? 実は私一度もペットを飼った事が無いんですけどネットで調べたら初心者にも飼いやすいって書いてあったので」「ええ、そうですね。初心者向きのワンちゃんですよ? 抜け毛や体臭も殆ど無くて甘えん坊さんですよ? 食費もそれ程かからないし……。あ、でも吠え声は割とよく通る方なので訓練はした方がいいかもしれませんね」「訓練ですか……何だか難しそうですね」朱莉が考え込むと、女性スタッフが言った。「それでしたら、こちらで信頼のおけるドックトレーナをご紹介しますよ」「あ、それはいいですね。是非お願いしたいです」そこまで言って、朱莉はハッとなった。これではもう完全にこの目の前のトイ・プードルを飼う流れになってしまっている。「あの……子犬を何も準備が無い内にいきなりその日連れて帰る、って言うのどうでしょうか?」「う~ん……そうですねえ……やはり事前に準備はしておいた方がいいと思いますよ」「お金だけ支払って子犬を迎え準備が整ったら引き渡しと言う形をお願いしても大丈夫ですか?」朱莉は遠慮がちに尋ねてみた。「ええ。問題ないですよ。それではそうされますか?」女性スタッフはにこやかに答えた。「はい」朱莉は返事をしつつ、トイ・プードルの値段を見て息を飲んだ。価格は税込みで52万円となっている。(た、高い……。他の犬よりも明らかに高いな……。犬ってこんなに高い物だなんて知らなかった。だけど……)朱莉は目の前にいるトイ・プードルをじっと見つめた。愛らしい黒の瞳でじっと朱莉を見つめるその子犬は、まるで早く朱莉に飼い主になって貰いたいと訴えているように思えてしまった。(すみません翔先輩。ち
「どうもお待たせいたしました。ではこちらがお客様がお買い上げになられた全ての商品になります」配達をしてきた若い男性店員から荷物を受け取る朱莉。「どうもありがとうございました」男性店員は明るい声で言うと、部屋を出て行った。「さて……それじゃ、準備しようかな?」朱莉は袋から次々と買って来た商品を取り出し、子犬を迎える為の準備を始めた――「ふう……こんなものかな?」広さが39畳あるリビングに設置されたサークル、ベッド、犬用トイレマット、ペットシーツ、おもちゃ等々が全てサークルの中に入っている。肝心の犬は5日後に朱莉に引き渡される事になっている。さらに少々気が早いかもしれないが、来週からはドッグトレーナーのしつけ訓練も始まる。朱莉はワクワクしていた。今迄単調だった生活の日々とも、もうすぐお別れ。新しい家族が誕生するのである。朱莉はスマホに収めてきたこれから新しくやってくるトイ・プードルの写真を眺めた。お店の許可を貰って、写真を撮らせてもらったのだ。「これからよろしくね」愛おしそうに写真を眺めて、ふと思い出した。琢磨から翔に飼った犬の写真を送って欲しいと頼まれていたのだ。(まだペットショップにいるけど……いいよね?)実際にはまだ自宅に来ていないが、もう支払いは済んでいるし、5日後にはここに来ることが決定している。ついでにかかった費用も伝えた方が良いだろう。朱莉はレシートと領収書の画像をスマホで取ると、メッセージを打ち込んだ。『こんにちは。本日、ペットショップでこちらの犬を買いました。金額は税込みで52万円でした。子犬を迎えるにあたり必要な品物を買い揃えた所、合計で100万円近く使ってしまいました。子犬がやって来るのは5日後になります。一度に沢山のお金を使ってしまい、申し訳ございませんでした。翔さんによろしくお伝え下さい』そして犬の画像ファイルと、レシートの画像を添付して琢磨に送信した。****「全く朱莉さんは……翔に気を遣い過ぎだ」琢磨は送られてきたメッセージを読みながら溜息をついた。確かに一般庶民が一度に100万以上の買い物をするのは、滅多に無いことだろう。だが、朱莉は仮にも鳴海グループの副社長の妻である。明日香などは普段から湯水のようにお金を使っているというのに……。「まあ、いいか……翔に電話するか」琢磨は翔のスマホに電話
――年末翔と明日香はハワイの別荘に来ていた。現在2人は別荘のバルコニーから海に沈む夕日を眺めている。「素敵……今年も翔とこうして2人きりでハワイの別荘で過ごせるなんて」明日香はうっとりとした目で翔を見つめる。「何で2人で過ごせないと思ったんだ?」翔は明日香の肩を抱きながら尋ねた。「だって翔。貴方は書類上とはいえ結婚したでしょう?」明日香は翔をじっと見つめた。「確かに結婚はしたけど、何度も言ってるだろう? 彼女は所詮祖父の目を胡麻化す為の妻だって。だから敢えて大人しそうな女性を選んだんだ。その証拠に今まで彼女の方から一度でも俺達に何か文句を言ってきたことでもあったか?」翔の問いに明日香は首を振った。「いいえ、無かったわ」「だろう? だから明日香は何も心配することは無い。今までと同じ生活を俺達は続けていくだけだよ」「だけど一つだけ不安なことがあるわ」明日香が不意に俯く。「不安なこと? 一体それは何だ?」「朱莉さんよ……。彼女、私の目から見てもすごく綺麗な女性でしょう? しかも女らしいし。彼女に心変わりなんて絶対にしないわよね?」その顔はとても真剣なものだった。「当り前だ。俺が明日香以外に心変わりなんてするはずがないだろう?」明日香の髪を撫る翔。「本当に? 本当に信じていいのよね? 私はね、この世で一番大好きな人は翔。貴方よ? だから、貴方の一番も常に私にしておいてよ? 例え私達の間に子供が生まれようとも私が一番大切なのは翔だけだからね? それを忘れないでね?」明日香は翔の首に腕を回す。「分かったよ明日香。例え新しい家族が増えたとしても、俺が一番愛するのは明日香だよ……」翔は明日香を抱きしめ、自分の心の中に暗い影が宿るのを感じた。(明日香。何故、自分の子供を一番に愛することが出来ないのに……お前は子供を欲しがるんだ?) 実はここ最近、明日香から子供が欲しいと翔はねだられていたのだ。しかし、カウンセラーの意向も聞き、子供を持つのはまだ無理だと言われていた。いや、それ以前に明日香の今の精神状態では妊娠中の身体の変化についていくことは難しいだろうと忠告されていたのである。今回翔が明日香の望み通りハワイに2人きりでやってきたのも、子供を持つのは後数年は考え直そうと説得する意味合いもあったのだ。 翔は一度深呼吸をすると、明日香に
「あ、明日香……。突然どうしたんだ?」久しぶりに明日香が怒りの感情を露わにしたことに翔は動揺した。「私が子供が嫌いなのは知ってるでしょう? 言うことは聞かないし、所かまわず泣くし、1人じゃ何も出来ないし……。小さい子供なんてね……犬猫と同じよ!」(い、犬猫と同じなんて……)明日香のあまりの言い分に絶句してしまった。(なら何故明日香は子供を望むのだろうか?)「明日香。もしかして子供好きの俺の為に無理して子供を産もうとしてくれているのか……?」しかし、明日香からの答えはあまりにも意外な内容だった。「いえ。私が子供を望むのはね……」明日香は翔に耳打ちをした。「!」翔は明日香の言葉にわが耳を疑ってしまった。「明日香……お前、本当にそんな理由で子供を欲しがっていたのか……?」震える声で翔は明日香に尋ねた。「あら……? そんな理由ですって? これって子供を産むのに十分な理由になると思うけど?」明日香は翔の頬に触れた。「すっかり日が落ちちゃったことだし、部屋に入りましょうよ。ワインで乾杯しない?」明日香は笑みを浮かべると部屋の中へと入って行った。「明日香……」1人取り残された翔は深いため息をつくと、琢磨にメッセージを送った――****ハワイ時間深夜1時――「琢磨、朱莉さんの今日の様子はどうだった? 何か困ったこととかありそうだったか?」ウィスキーを飲みながら翔は琢磨に尋ねた。『お前なあ……。そんなに様子が気になるなら自分から彼女に直接連絡とればいいだろう?』電話越しから琢磨のうんざりした声が聞こえてくる。「いや、それは無理だ。何故なら……」『朱莉さんに内緒で明日香ちゃんと2人でハワイに来ている。下手に連絡を入れて、ハワイにいることを知られたら肩身が狭い。って言いたいんだろう?』「何だ……良く分かってるじゃないか」『当たり前だ。お前と何年付き合ってると思ってるんだ?』琢磨の呆れたような声が受話器越しから聞こえてくる。「そうだよな……。何でもお見通しか……。それで朱莉さんの飼ってる犬の様子だが……」『ああ、分かってるよ。……ったく……。朱莉さんから子犬の動画が送られてきているから、後でお前のアドレスに転送しておいてやるよ』「ありがとう、すまないな」『そういう台詞はな……朱莉さんに直接伝えてやるんだな』「そうだよな
年が明けた1月2日―- 「マロン、暴れないで。身体洗えないから」今朱莉は新しく家族に迎えたトイ・プードルの子犬のシャンプーの真っ最中だった。朱莉は仔犬の名前を『マロン』と名付けた。それは犬の毛並みが見事な栗毛色をしていたからである。ブリーダーの女性に名前と由来を説明したところ、とても素敵な名前ですねと褒めて貰えたのも凄く嬉しかった。「はい、マロンちゃん。いい子にしていてね~」大きな洗面台にマロンを乗せ、お湯の温度を自分の腕に当てて計ってみる。「うん、これ位でいいかな?」マロンはつるつる滑る洗面台の上が怖いのか、さっきまで暴れていたが、今は大人しくしている。シャワーの水量を弱くして、そっとマロンに当てると、最初ビクリとしたが余程気持ちが良かったのか、途中で目をつぶって幸せそうな?顔でじっとしている。「そう、良い子ね~マロンちゃん」朱莉は愛しむようにマロンの身体にシャワーを当てて、シャンプーで泡立てて綺麗に洗ってあげる。マロンはじっと目を閉じて、されるがままになっている。丁寧にシャンプーを流し、ドライヤーで乾かしてあげるとフカフカで、それは良い匂いが仔犬から漂っている。「ふふ……。なんて可愛いんだろう」マロンを抱き上げ、朱莉は幸せそうに笑みを浮かべた。マロンが朱莉の家にやって来たのは年末が押し迫った時期だった。毎年、年末年始は朱莉は狭いアパートで一人ぼっちで過ごしていたが、今年は違う。広すぎる豪邸に大切な家族の一員となった仔犬のマロンが一緒に過ごしてくれているのだ。(私って多分恵まれているんだよね……?)マロンを相手に遊びながら、朱莉は翔と明日香のことを思った。(翔さんと明日香さんはどうやって年末年始を過ごしているんだろう……。もう少しあの2人と交流が出来ていれば、おせち料理の御裾分け出来たのにな……)朱莉はテーブルの上に並べらた1人用のお重セットをチラリと見た。母親が病気で入院する前は、毎年母親と2人でおせち料理を作って食べていた朱莉は1人暮らしになってからも、お煮しめや田作り、栗きんとんに伊達巻、黒豆、数の子は最低限作るようにしていたのである。長年作り続けていたので節料理の腕前も上がり、勤め先の缶詰工場の社長夫妻に家におせちを届けていたこともあり、喜ばれていた。「でもあの2人は美味しい料理を食べ慣れているだろうから、私のおせち料理は
「翔さん、落ち着いて下さい。医者の話では出産と過呼吸のショックで一時的に記憶が抜け落ちただけかもしれないと言っていたではありませんか。それに対処法としてむやみに記憶を呼び起こそうとする行為もしてはいけないと言われましたよね?」「ああ……だから俺は何も言わず我慢しているんだ……」「翔さん。取りあえず今は待つしかありません。時がやがて解決へ導いてくれる事を信じるしかありません」やがて、2人は一つの部屋の前で足を止めた。この部屋に明日香の目を胡麻化す為に臨時で雇った蓮の母親役の日本人女子大生と、日本人ベビーシッター。そして生れて間もない蓮が宿泊している。 翔は深呼吸すると、部屋のドアをノックした。すると、程なくしてドアが開かれ、ベビーシッターの女性が現れた。「鳴海様、お待ちしておりました」「蓮の様子はどうだい?」「良くお休みになられていますよ。どうぞ中へお入りください」促されて翔と姫宮は部屋の中へ入ると、そこには翔が雇った蓮の母親役の女子大生がいない。「ん? 例の女子大生は何処へ行ったんだ?」するとシッターの女性が説明した。「彼女は買い物へ行きましたよ。アメリカ土産を持って東京へ戻ると言って、買い物に出かけられました。それにしても随分派手な母親役を選びましたね?」「仕方なかったのです。急な話でしたから。それより蓮君はどちらにいるのですか?」姫宮はシッターの女性の言葉を気にもせず、尋ねた。「ええ。こちらで良く眠っておられますよ」案内されたベビーベッドには生後9日目の新生児が眠っている。「まあ……何て可愛いのでしょう」姫宮は頬を染めて蓮を見つめている。「あ、ああ……。確かに可愛いな……」翔は蓮を見ながら思った。(目元と口元は特に明日香に似ているな)「残念だったよ、起きていれば抱き上げることが出来たんだけどな。帰国するともうそれもかなわなくなる」すると姫宮が言った。「いえ、そんなことはありません。帰国した後は朱莉さんの元へ会いに行けばいいのですから」「え? 姫宮さん?」翔が怪訝そうな顔を見せると、姫宮は、一種焦った顔をみせた。「いえ、何でもありません。今の話は忘れてください」「あ、ああ……。それじゃ蓮の事をよろしく頼む」翔がシッターの女性に言うと、彼女は驚いた顔を見せた。「え? もう行かれるのですか?」「ああ。実はこ
アメリカ—— 明日いよいよ翔たちは日本へ帰国する。翔は自分が滞在しているホテルに明日香を連れ帰り、荷造りの準備をしていた。その一方、未だに自分が27歳の女性だと言うことを信用しない明日香は鏡の前に座り、イライラしながら自分の顔を眺めている。「全く……どういうことなの? こんなに自分の顔が老けてしまったなんて……」それを聞いた翔は声をかける。「何言ってるんだ、明日香。お前はちっとも老けていないよ。いつもどおりに綺麗な明日香だ」すると……。「ちょっと! 何言ってるのよ、翔! 自分迄老け込んで、とうとう頭もやられてしまったんじゃないの? 今迄そんなこと私に言ったこと無かったじゃない。大体おかしいわよ? 私が病院で目を覚ました時から妙にベタベタしてくるし……気味が悪いわ。もしかして私に気があるの? 言っておくけど仮にも血が繋がらなくたって私と翔は兄と妹って立場なんだから! 私に対して変な気を絶対に起こさないでね!?」明日香は自分の身体を守るように抱きかかえ、翔を睨み付けた。「あ、ああ。勿論だ、明日香。俺とお前は兄と妹なんだから……そんなことあるはず無いだろう?」苦笑する翔。「ふ~ん……翔の言葉、信用してもいいのね?」「ああ、勿論さ」「だったらこの部屋は私1人で借りるからね! 翔は別の部屋を借りてきてちょうだい。 あ、でも姫宮さんは別にいて貰っても構わないけど?」明日香は部屋で書類を眺めていた姫宮に声をかける。「はい、ありがとうございます」姫宮は明日香に丁寧に挨拶をした。「それでは翔さん、別の部屋の宿泊手続きを取りにフロントへ御一緒させていただきます。明日香さん。明日は日本へ帰国されるので今はお身体をお安め下さい」姫宮は一礼すると、翔に声をかけた。「それでは参りましょう。翔さん」「あ、ああ。そうだな。それじゃ明日香、まだ本調子じゃないんだからゆっくり休んでるんだぞ?」部屋を出る際に翔は明日香に声をかけた。「大丈夫、分かってるわよ。自分でも何だかおかしいと思ってるのよ。急に老け込んでしまったし……大体私は何で病院にいたの? 交通事故? それとも大病? そうでなければ身体があんな風になるはず無いもの……」明日香は頭を押さえながらブツブツ呟く「ならベッドで横になっていた方がいいな」「そうね……。そうさせて貰うわ」返事をすると
琢磨に礼を言われ、朱莉は恐縮した。「い、いえ。お礼を言われるほどのことはしていませんから」「朱莉さん、そろそろ17時になる。折角だから何処かで食事でもして帰らないかい?」「あ、それならもし九条さんさえよろしければ、うちに来ませんか? あまり大した食事はご用意出来ないかもしれませんが、なにか作りますよ?」朱莉の提案に琢磨は目を輝かせた。「え?いいのかい?」「はい、勿論です。あ……でもそれだと九条さんの相手の女性の方に悪いかもしれませんね……」「え?」その言葉に、一瞬琢磨は固まる。(い、今……朱莉さん何て言ったんだ……?)「朱莉さん……ひょっとして俺に彼女でもいると思ってるのかい?」琢磨はコーヒーカップを置いた。「え? いらっしゃらないんですか?」朱莉は不思議そうに首を傾げた。「い、いや。普通に考えてみれば彼女がいる男が別の女性を食事に誘ったり、こうして買い物について来るような真似はしないと思わないかい?」「言われてみれば確かにそうですね。変なことを言ってすみませんでした」朱莉が照れたように謝るので琢磨は真剣な顔で尋ねた。「朱莉さん、何故俺に彼女がいると思ったの?」「え? それは九条さんが素敵な男性だからです。普通誰でも恋人がいると思うのでは無いですか?」「あ、朱莉さん……」(そんな風に言ってくれるってことは……朱莉さんも俺のことをそう言う目で見てくれているってことなんだよな? だが……これは喜ぶべきことなのだろうか……?)琢磨は複雑な心境でカフェ・ラテを飲む朱莉を見つめた。すると琢磨の視線に気づく朱莉。「九条さんは何か好き嫌いとかはありますか?」「いや、俺は好き嫌いは無いよ。何でも食べるから大丈夫だよ」それを聞いた朱莉は嬉しそうに笑った。「九条さんも好き嫌い無いんですね。航君みたい……」その名前を琢磨は聞き逃さなかった。「航君?」「あ、いけない! すみません、九条さん、変なことを言ってしまいました。そ、それじゃもう行きませんか?」朱莉は慌てて、まるで胡麻化すように席を立ちあがった。「あ、ああ。そうだね。行こうか?」琢磨も何事も無かったかの様に立ち上がったが、心は穏やかでは無かった。(航君……? 一体誰のことなんだろう? まさかその人物が朱莉さんと沖縄で同居していた男なのか?それにしても君付けで呼ぶなん
14時―― 朱莉がエントランス前に行くと、すでに琢磨が億ションの前に車を停めて待っていた。「お待たせしてすみません。九条さん、もういらしてたんですね」朱莉は慌てて頭を下げた。「いや、そんなことはないよ。だってまだ約束時間の5分以上前だからね」琢磨は笑顔で答えた。本当はまた今日も朱莉に会えるのが嬉しくて、今から15分以上も前にここに到着していたことは朱莉には内緒である。「それじゃ、乗って。朱莉さん」琢磨は助手席のドアを開けた。「はい、ありがとうございます」朱莉が助手席に座ると、琢磨も乗り込んだ。シートベルトを締めてハンドルを握ると早速朱莉に尋ねた。「朱莉さんは何処へ行こうとしていたんだっけ?」「はい。赤ちゃんの為に何か素敵なCDでも買いに行こうと思っていたんです。それとまだ買い足したいベビー用品もあるんです」「よし、それじゃ大型店舗のある店へ行ってみよう」「はい、お願いします」琢磨はアクセルを踏んだ――**** それから約3時間後――朱莉の買い物全てが終了し、車に荷物を積み込んだ2人はカフェでコーヒーを飲みに来ていた。「思った以上に買い物に時間がかかってしまったね」「すみません。九条さん……私のせいで」朱莉が申し訳なさそうに頭を下げた。「い、いや。そう意味で言ったんじゃないんだ。まさか粉ミルクだけでもあんなに色々な種類があるとは思わなかったんだよ」「本当ですね。取りあえず、どんなのが良いか分からなくて何種類も買ってしまいましたけど口に合う、合わないってあるんでしょうかね?」「う~ん……どうなんだろう。俺にはさっぱり分からないなあ……」琢磨は珈琲を口にした。「そう言えば、すっかり忘れていましたけど、九条さんの会社はインターネット通販会社でしたね?」「い、いや。俺の会社と言われると少し御幣を感じるけど……まあそうだね」「当然ベビー用品も扱っていますよね?」「うん、そうだね」「それでは今度からはベビー用品は九条さんの会社で利用させていただきます」「ありがとう。確かに新生児がいると母親は買い物も中々自由に行く事が難しいかもね。……よし、今度の企画会議でベビー用品のコンテンツをもっと広げるように提案してみるか……」琢磨は仕事モードの顔に変わる。「ついでに赤ちゃん用の音楽CDもあるといいですね。出来れば視聴も試せ
朝食を食べ終わり、片付けをしていると今度は朱莉の個人用スマホに電話がかかってきた。それは琢磨からであった。昨夜琢磨と互いのプライベートな電話番号とメールアドレスを交換したのである。「はい、もしもし」『おはよう、朱莉さん。翔から何か連絡はあったかい?』「はい、ありました。突然ですけど明日帰国してくるそうですね」『ああ、そうなんだ。俺の所にもそう言って来たよ。それで明日香ちゃんの為に俺にも空港に来てくれと言ってきたんだ。……当然朱莉さんは行くんだろう?』「はい、勿論行きます」『車で行くんだよね?』「はい、九条さんも車で行くのですね」『それが聞いてくれよ。翔から言われたんだ。車で来て欲しいけど、俺に運転しないでくれと言ってるんだ。仕方ないから帰りだけ代行運転手を頼んだんだよ。全く……いつまでも俺のことを自分の秘書扱いして……!』苦々し気に言う琢磨。それを聞いて朱莉は思った。(だけど九条さんも人がいいのよね。何だかんだ言っても、いつも翔先輩の言うことを聞いてあげているんだから)朱莉の思う通り、琢磨自身が未だに自分が翔の秘書の様な感覚が抜けきっていないのも事実である。それ故、多少無理難題を押し付けられても、つい言いなりになってしまうことに琢磨自身は気が付いていなかった。「でも、どうしてなんでしょうね? 九条さんに運転をさせないなんて」朱莉は不思議に思って尋ねた。『それはね、全て明日香ちゃんの為さ。明日香ちゃんは自分がまだ高校2年生だと思っているんだ。その状態で俺が車を運転する訳にはいかないんだろう。全く……せめて明日香ちゃんが自分のことを高3だと思ってくれていれば、在学中に免許を取ったと説明して運転出来たのに……』琢磨のその話がおかしくて、朱莉はクスリと笑ってしまった。「でもその場に私が現れたら、きっと変に思われますよね? 明日香さんには私のこと何て説明しているのでしょう?」『……』何故かそこで一度琢磨の声が途切れた。「どうしたのですか? 九条さん」『朱莉さん……君は何も聞かされていないのかい?』「え……?」『くそ! 翔の奴め……いつもいつも肝心なことを朱莉さんに説明しないで……!』「え? どういうことですか?」(何だろう……何か嫌な胸騒ぎがする)『俺も今朝聞いたばかりなんだよ。翔は現地で臨時にアルバイトとして女子大生と
「それじゃ、朱莉さん。次は翔から何か言ってくるかもしれないけど、くれぐれもアイツの滅茶苦茶な要求には答えたら駄目だからな?」タクシーに乗り込む直前の朱莉に琢磨は念を押した。「九条さんは随分心配性なんですね。私なら大丈夫ですから」朱莉は笑みを浮かべた。「もし翔から契約内容を変更したいと言ってきたら……そうだな。まずは俺に相談してから決めると返事をすればいい」するとタクシー運転手が話しかけてきた。「すみません。後が詰まってるので……出発させて貰いたいのですが……」「あ! すみません!」琢磨は慌ててタクシーから離れると、朱莉が乗り込んだ。車内で朱莉が琢磨に頭を下げる姿が見えたので、琢磨は手を振るとタクシーは走り去って行った。「ふう……」タクシーの後姿を見届けると、琢磨はスマホを取り出して、電話をかけた。「もしもし……はい。そうです。今別れた所です。……ええ。きちんと伝えましたよ。……後はお任せします。え? ……いいのかって? ……あなたなら何とかしてくれるでしょう? それだけの力があるのですから。……失礼します」そして電話を切ると、夜空を見上げた。「雨になりそうだな……」**** 翌朝――6時朱莉はベッドの中で目を覚ました。昨夜は琢磨から聞いた翔の伝言で頭がいっぱいで、まともに眠ることが出来なかった。寝不足でぼんやりする頭で起きて、着替えをするとカーテンを開けた。「あ……雨……。どうりで薄暗いと思った……」今日は朱莉の車が沖縄から届く日になっている。車が届いたら朱莉は新生児に効かせる為のCDを買いに行こうと思っていた。これから複雑な環境の中で育っていく子供だ。せめて綺麗な音楽に触れて、情操教育を養ってあげたいと朱莉は考えていた。洗濯物を回しながら朝食の準備をしていると、翔との連絡用のスマホに着信を知らせる音楽が鳴った。(まさか、翔先輩!?)朱莉はすぐに料理の手を止め、スマホを見るとやはり翔からのメッセージだった。今朝は一体どんな内容が書かれているのだろう? 翔からの連絡は嬉しさの反面、怖さも感じる。好きな人からの連絡なのだから嬉しい気持ちは確かにあるのだが問題はその中身である。大抵翔からのメールは朱莉の心を深く傷つける内容が殆どを占めている。(やっぱり契約内容の変更についてなのかなあ……)朱莉はスマホをタップした。『おは
「本当はこんなこと、朱莉さんに言いたくは無かった。だが翔が仮に今の話を直接朱莉さんに話したとしたら? 恐らく翔のことだ。きっと再び朱莉さんを傷付けるような言い方をして、挙句の果てに、これは命令だとか、ビジネスだ等と言って強引に再契約を結ばせるつもりに違いない。だがそんなこと、絶対に俺はさせない。無期限に朱莉さんを縛り付けるなんて絶対にあってはいけないんだ」琢磨は顔を歪めた。(え……無期限に明日香さんの子供の面倒を? それってつまり偽装婚も無期限ってこと……?)なので朱莉は琢磨に尋ねた。「あの……それってつまり翔さんは私との偽装結婚を無期限にする……ということでもあるのですよね?」(そうしたら、私……もう少しだけ翔先輩と関わっていけるってことなのかな?)しかし、次の瞬間朱莉の淡い期待は打ち砕かれることになる。「いや、翔の言いたいことはそうじゃないんだ。当初の予定通り偽装婚は残り3年半だけども子育てに関しては明日香ちゃんが記憶を取り戻すまで続けて貰いたいってことなんだよ」「え……?」「つまり、翔は3年半後には契約通りに朱莉さんと離婚して、子供だけは朱莉さんに引き続き面倒を見させる。しかも明日香ちゃんが記憶を取り戻すまで、無期限にだ。こんな虫のいい話あり得ると思うかい?」「……」朱莉はすっかり気落ちしてしまった。(やっぱり……ほんの少しでも翔先輩から愛情を分けて貰うのは所詮叶わないことなの? でも……)「九条さん」朱莉は顔を上げた。「何だい」「私、明日香さんと翔さんの赤ちゃんを今からお迎えするの、本当に楽しみにしてるんです。例え自分が産んだ子供で無くても、可愛い赤ちゃんとあの部屋で一緒に暮らすことが待ちきれなくて……」「朱莉さん……」「九条さん。もし、子供が3歳になっても明日香さんが記憶を取り戻せなかった場合は、翔さんは私に引き続き子供を育てて欲しいって言ってるわけですよね? それって……翔さんは記憶の戻っていない明日香さんにお子さんを会わせてしまった場合、お互いにとって精神面に悪影響が出るのではと苦慮して私に預かって貰いたいと思っているのではないでしょうか? だって、考えても見てください。ただでさえ10年分の記憶が抜けて自分は高校生だと信じて疑わない明日香さんに貴女の産んだ子供ですと言って対面させた場合、明日香さんが正常でいられると
明日香が10年分の記憶を失い、高校生だと思い込んでいる話は朱莉にとってあまりにもショッキングな話であった。「朱莉さん、大丈夫かい? 顔色が真っ青だ」「は、はい。大丈夫です。でもそうなると今一番大変なのは翔先輩ではありませんか?」朱莉は翔のことが心配でならなかった。あれ程明日香を溺愛しているのだ。17歳の時、翔と明日香は交際していたのだろうか? ただ、少なくとも朱莉が入学した当時の2人は交際しているように見えた。「朱莉さん、翔が心配かい?」琢磨が少し悲し気な表情で尋ねてきた。「はい、とても心配です。勿論一番心配なのは明日香さんですけど」「やっぱり朱莉さんは優しい人なんだね」(あの2人に今迄散々蔑ろにされてきたのに……それらを全て許して今は2人をこんなに気に掛けて……)「何故翔さんは九条さんに連絡を入れてきたのですか? それに、どうして九条さんから私に説明することになったのでしょう?」朱莉は琢磨の瞳をじっと見つめた。「俺も、2日前に翔から突然メッセージが届いたんだよ。あの時は驚いた。翔と決別した時に、アイツはこう言ったんだよ。互いに二度と連絡を取り合うのをやめにしようと。こちらとしてはそんなつもりは最初から無かったけど、翔がそこまで言うのならと思って自分から二度と連絡するつもりは無かったんだ。それなのに突然……」そして、琢磨は近くを通りかかった店員に追加でマティーニを注文すると朱莉に尋ねた。「朱莉さんはどうする?」「それでは私はアルコール度数が低めのお酒で」「それなら、『ミモザ』なんてどうかな? シャンパンをオレンジジュースで割った飲み物だよ。アルコール度数も8度前後で、他のカクテルに比べると度数が低い」琢磨はメニュー表を見ながら朱莉に言った。「はい、ではそちらを頂きます」「かしこまりました」店員は頭を下げると、その場を立ち去っていく。すると琢磨が再び口を開いた。「明日香ちゃんは自分を高校生だと思い込んでいるから、当然翔の隣にはいつも俺がいるものだと思い込んでいるらしいんだ。考えてみればあの頃の俺達はずっと3人で一緒に高校生活を過ごしてきたようなものだからね。それで明日香ちゃんが目を覚ました時、翔に俺のことを聞いてきたらしい。『琢磨は何処にいるの?』って。それで一計を案じた翔が明日香ちゃんを安心させる為に、もう一度3人で会いた
「九条さんが【ラージウェアハウス】の新社長に就任した話はニュースで知ったんです。あの時九条さん言ってましたよね? 鳴海グループにも負けない程のブランド企業にするって」「ああ、あの話か……。あれは……まあもう1人の社長にああいうふうに言えって半ば命令されたからさ。自分の意思で言った訳じゃ無いが正直、気分は良かったな」琢磨は笑みを浮かべる。「あの翔に一泡吹かせることが出来たみたいだし。初めはテレビインタビューなんて御免だと思ったけどね。大分、翔の奴は慌てたらしい」朱莉もカクテルを飲むと琢磨を見た。「え? その話は誰から聞いたんですか?」「会長だよ」琢磨の意外な答えに朱莉は驚いた。「九条さんは会長と個人的に連絡を取り合っていたのですか?」「ああ、そうだよ。実は以前から会長に秘書にならないかと誘われていたんだ。でも俺は翔の秘書だったから断っていたんだけどね」「そうだったんですか」あまりにも驚く話ばかりで朱莉の頭はついていくのがやっとだった。「それにしても朱莉さんも随分雰囲気が変わったよね? 前よりは積極的になったようだし、お酒も飲めるようになってきた。……ひょっとして沖縄で何かあったのかい?」琢磨の質問に朱莉は一瞬迷ったが、決めた。(九条さんだって話をしてくれたのだから、私も航君のこと、話さなくちゃ)「実は……」朱莉は沖縄での航との出会い、そして別れまでを話した。もっとも名前を明かす事はしなかったが。一方の琢磨は朱莉の話を呆然と聞いていた。(まさか朱莉さんが男と同居していたなんて。しかもあんなに頬を染めて嬉しそうに話してくるってことは……その男、朱莉さんに取って特別な存在だったのか?)朱莉が沖縄で男性と同居をしていた……その事実はあまりに衝撃的で、琢磨の心を大きく揺さぶった。「それでその彼とは東京へ戻ってからは音信不通……ってことなのかい?」内心の動揺を隠しながら琢磨は尋ねた。「はい。そうです。だから条さんとは連絡が取れて嬉しかったです。ありがとうございました」お酒でうっすら赤く染まった頬ではにかみながら琢磨にお礼を言う朱莉の姿は琢磨の心を大きく揺さぶった。「そ、そんな笑顔で喜んでくれるなんて思いもしなかったよ。でも……そうか。朱莉さんが以前よりお酒を飲めるようになったのはその彼のお陰なんだね?」「そうですね……。きっとそう